【熱狂半島】落合賢氏/ベトナム映画『パパと娘の7日間』の日本人監督

映画への目覚め、憧れのハリウッド

ベトナムと日本の架け橋として活躍する日本人やベトナム人の奮闘を語ってもらう取材企画「熱狂半島」。今回は12月28日から公開され大ヒットとなったベトナム映画『パパとムスメの7日間』で監督を務めた落合賢氏をインタビュー。2016年に『サイゴン・ボディガード』でベトナム映画初の日本人監督として注目を浴び、ベトナム国内で大ヒット。今作は二度目のベトナム映画監督作品となります。原作は日本の小説で、父と娘の身体が入れ替わる内容の軽快コメディー。日本のTVドラマでも大ヒットした作品をベトナム映画版としてリメイク。今回はベトナム映画と深い関わりを持つことになった落合監督ご自身の気になるプロフィールや今作に関することをお伺いしました。

プロフィール

落合 賢(おちあい けん) 1983年5月31日生 東京都出身。高校卒業後に渡米し、南カリフォルニア大学の映画製作学科に入学。大学卒業後はアメリカ映画協会付属大学院の映画監督科に進学。『ハーフケニス』という短編映画で全米監督協会(DGA)からアジア系アメリカ人学生部門審査員特別賞を受賞。2011年、梶原一騎原作のアニメ『タイガーマスク』の実写版を監督。2014年、斬られ役として知られる福本清三を主演にした『太秦ライムライト』が公開され、国外からも高い評価を得た。 2015年、海外マーケット向けに制作された「NINJA THE MONSTER」が、京都府京都文化博物館で公開された。2016年、ベトナム映画初の日本人監督として『サイゴンボディガード』を指揮しベトナム国内で大ヒットとなる。
2018年12月28日からベトナムで公開された落合監督が製作した映画『パパとムスメの7日間』

こちらは落合監督のベトナム二作目となり『パパと娘の7日間』の予告編

中学1年の初めて映画監督を務めたほろ苦い思い出

ベッター編集部
まずは監督のプロフィールに関することを聞かせてください。幼少時代はどんなお子さんでしたか? 映画との出会いも含めて教えて下さい。
落合監督
東京で生まれ育ちました。映画や芸術とは無縁の普通の家庭です。映画との大きな出会いは、中学一年の文化祭で初めて監督、脚本をやらせてもらったことです。
ベッター編集部
積極的な少年だったのですか? そして第一回監督作品はいかがでしたか?
落合監督
目立ちたがりで仕切り好きだったので監督にも立候補しました。作品は『ぼくらの七日間戦争』で知られる宗田理さん原作の『ぼくらシリーズ』が当時流行っていて、それを文字って『ぼくらと3人の強盗たち』というタイトルです。

3人の泥棒が銀行強盗に失敗した後、学校に立て籠もり、人質を盾に身代金を要求する。そこで7人の生徒が立ち上がり強盗をやっつけて人質を救出するストーリーです。

ベッター編集部
思惑通りの撮影ができましたか?
落合監督
男子校だったので出演者は全員クラスメートの男子。今思えば、おままごとみたいな感じですね(笑)それでも当時は真剣でした。
ベッター編集部
中一にして映画監督の素質が感じられるのですが、クラスメートは頑張ってくれたのですか?
落合監督
強盗が「人質を取った」とアナウンスした後、異常事態に気づいた生徒が派手に机を倒しながら一斉に教室から逃げるシーンがあったんですが、出演者が笑っていたんです。そこでぼくが「机を倒すのが楽しいのはわかるけど、このシーンは笑うところじゃない。恐怖で泣くぐらいの演技をしてほしい」と説得しましたが、なかなか納得できなくて何度もテイクの繰り返し。そのうちにみんなのやる気がなくなってきました。

ぼくも上手くいかないことにいら立ち「やる気がないのならオレは帰る」って帰ろうとしたんです。もともと涙もろいのですが、校門の前で涙が溢れてきました。すると追っかけるように学級委員長がやって来てぼくを止めてくれたんです。「落合、さっきの態度はお前が悪い。一緒に謝ってあげるから戻って来い」って言われました。

夏休み中の撮影でクラスメイトは休日返上で参加してくれているのに、ぼくには彼らに対する感謝が足りませんでした。そんな学級委員長の忠告にハッと気づき、確かにその通りだと思ったんです。しかし、一方で学級委員長に指摘されたことが悔しくて、また涙が出てきて……(笑)最終的に映画は完成しましたが、このことがきっかけで映画はみんなで作るものということを強く意識するようになりました。

ベッター編集部
中学1年で初監督した後、中高でも映画監督を続けられたんですね?
落合監督
はい、中学は男子校だったので必然的に女子役も男子がやります。しかし男の女役には限界があります。だからこのまま男子校にいたら面白い作品が撮れないと思い、高校は共学に転校しました。
ベッター編集部
映画製作のための転校なんですね。
落合監督
高校時代はいつかハリウッドで映画を撮りたいと思うようになりました。そのためにはアメリカの大学で映画を学ぼうと留学を決意しました。どうすれば面白い映画が撮れるかというテーマとともに今まで人生を歩んできたと言ってもいいかも知れません。
ベッター編集部
映画以外に興味の対象が見つからなかったのですか?
落合監督
他に特技がなかったですから。ただ父は留学は許可してもアメリカの大学で映画を学ぶことには反対でした。父の許可を得るため5年間かけて説得し、最終的には大学院まで行く約束で映画大学への入学許可を得ました。

憧れのハリウッド。本場アメリカの映画大学へ

ベッター編集部
お許しが出たはいいのですが、不安はありませんでしたか? 英会話に自信はあったのですか?
落合監督
不安だらけです。当初は英語も全然喋れません。しかし今思えば、話せないからこそ自分の性格がいい方に変わることができた気もしています。
ベッター編集部
英語が話せないことで性格が良くなったのですか?
落合監督
はい。英語が話せなかったからこそ人の話をよく聞くようになりました。喋れないからこそコミュニケーションとは何かを探ろうとしましたし、映画でコミュニケーションを図ろうという思いが生まれました。相手にいかに伝えるかと考えることは、今でも生かされていると思います。
ベッター編集部
せっかく留学してるのに、日本人同士で集まって英語力が身に付かないといった話をよく聞くのですが、そんなことはなかったのですか?
落合監督
渡米時に英語が喋れるまで日本人の友だちを作らない。絶対ではないけれど、なるだけアメリカ人や他国留学生と遊ぼうと決めていました。ただし、それを実践してもなかなか喋れず、だからこそコミュニケーションを考えることにつながりました。また自分と対話することを発見できたことも大きなプラスになったと思います。
ベッター編集部
自分と対話するとは、具体的にはどういうことでしょうか?
落合監督
例えば、同じ言語の日本人と一緒にいると、自分との対話が少なくなると思うんです。孤独だからこそ自分と向き合える。独りで自分と向き合い、いろんな物事を考えられたことは、ある意味英語が話せないからこそできたことかもしれません。
ベッター編集部
ちゃんと現実と向き合いながら進路を見極めていたのですね。
落合監督
今だからこそ、学生時代の苦悩した時間を美化している部分もありますが、当時はやっぱり辛かったですし、日本に帰りたい思いもありました。
ベッター編集部
大学の授業自体は楽しかったのですか?
落合監督
楽しかったです。映画と英語、時間も2倍かかって大変ですが、やりがいもありました。アメリカでは娯楽である映画を学問として学ぶことができるというのが、ぼくにとっては感動的で学び甲斐がありました。
ベッター編集部
具体的にどんなことを学ぶのですか?
落合監督
最初の授業が、劇場サウンドの先駆者として知られてるトムリソン・フォールマン教授の音響授業で今でも忘れられません。
劇場サウンドシステム、THXを作った人で『スターウォーズ』にも関わった人です。内容は『スターウォーズ』の冒頭の宇宙船が登場する映像を見させられました。始まりの映像は無音。教授は「宇宙は無音、これが本当の宇宙なんだ」と言いました。そこから様々な音が重なるのですが、宇宙船の音やサウンド、音のレイヤーをひとつずつ教えてくれ、映画での音の使い方を学びました。
ベッター編集部
ひとつひとつの音に意図があり、効果をもたらす。緻密な計算で映画サウンドが作られるということですね。
落合監督
はい。その授業が楽しくて楽しくて……。興味ある映画のことだから楽しいのは当たり前ですが、音響効果を学問として体系化していることに感動しました。演技の授業でも演じるとは単にセリフを言うことだけではない。演じるとは一体どういうことなのかも含めて学びます。
ベッター編集部
さすが映画大国、日本よりも成熟している気がします。
落合監督
映画が立派な産業として成立している国なので、日本よりも深く映画のことが学べるところだと思います。

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