本記事は、ベトナムやベトナム人に起こる出来事を多彩に切り取り、解説するコーナーです。
日本人にとってのベトナムは一定年齢層以上に限れば間違いなく「ベトナム戦争」そして「反戦運動」を想起する言葉だろう。書店にあふれるベトナム関連書籍も観光・グルメ本を除けば大半が「ベトナム戦争」の著作だ。
著名なものだけでも開高健の「ベトナム戦記」「輝ける闇」、近藤紘一の「サイゴンの一番長い日」、ニール・シーハンの「輝ける嘘」、さらに映画の世界となればベトナム戦争を描いた作品は1ジャンルを画すほど多彩、多様である。映画に関しては後日別稿で触れたい。
ジャーナリズムの世界ではベトナム戦争は「自由に取材のできた最後の戦争」と位置付けられている。当時大手マスコミの特派員に加えて無名のフリーランス記者、特にカメラマンにとってベトナムは成功への手がかりの地だった。最前線で戦争の実態をとらえた1枚をロイターやAP、AFP,UPIなどの通信社に持ち込み、高値で買い取られた写真は欧米の主要紙の紙面を飾った。
このためカメラマンは命の危険を冒して最前線、弾丸・砲弾が飛び交う中でシャッターを切るのだった。沢田恭一、一ノ瀬泰三、ロバート・キャパなどが有名だ。こうした命知らずのカメラマンの取材を米軍は自由に許した。前線に向かうヘリに余席があれば同乗が可能でほぼすべての前線でカメラを構えることができた。結果的にはこうした取材で戦争の悲惨な実況が伝えられ、それが米国内での反戦運動につながっていくという米軍、米政府には予想外の展開となった。
ベトナム出撃基地だった日本でも小田実氏らによる「べ平連」の反戦活動となる。毎日新聞の大森実は1965年に西側記者として初めて北ベトナム・ハノイ入りして北から米軍の誤爆などの戦争を伝えた。また従軍した北ベトナムの女医による「トゥイーの日記」や従軍医としてジャングル戦や野戦病院の実態を描いた「ホーチミン・ルート従軍記」などの著書が北の視点、実情を伝えた。
この時の反省から米軍は以後の戦争でメディア統制に乗り出し、イラク戦争では「エンベデッド(埋め込む)」方式として一定の基準をクリアした記者(主に体力検定)を各部隊と行動を共にする方法での取材を許可、管理。中立、公平な報道の完全な担保はベトナム戦争以降実質的に困難となったのだった。米軍が歴史上初めて敗北したベトナム戦争は戦争の悲惨さと同時にベトナム民族の不屈の抵抗を世界に示した戦いだったといえる。
※本コラムは、筆者の個人的見解を示すものであり、週刊ベッターの公式見解を反映しているものではありません。